古来(江戸時代以前)から「通幻禅師開創の四箇道場」の呼称がありますが、通幻禅師ご自身によって開山された寺院のうち、まず最初にあげることのできる寺院は、摂丹境の永澤寺です。
 この摂丹境は、京都をあとに西へ、また、大阪からは北に向かって、それぞれ徒歩で一日行程の路次にあり、摂津・丹波・播磨を眺望できる三国山の南麓に位置し、あまたの霊場をもつ山伏修験者にとっての要衝の地でありました。
 そして、この地は修験者たちばかりでなく、当時の武将にとっても戦略的に重要であったので、足利幕府管領職の細川頼之の懇望により、通幻禅師を開山に迎えて応安3年(1370)ここに永澤寺が開かれました。
 開創後まもなく後円融天皇の勅願所となり、また、通幻禅師滅後は通幻門下の祖廟として重要な性格を担ってきました。江戸時代に入って寛永6年(1629)、幕府が初めて曹洞宗に僧録制を発布した際、永澤寺が丹波・丹後・摂津・播磨・但馬の諸国、つまり今の京都府の北部と兵庫県全域の曹洞一宗の「僧録」に任ぜられ、そのとき江戸幕府へ提出した「永澤寺由緒書」に六ヶ条の由緒が記載されていますが、最初の二ケ条には、
 
一、 摂津・丹波両国の境目、青野原永澤寺は通幻和尚開闢の地なり。而して、日本曹洞一宗大本山能州総持寺門首たる事。
一、 応安年中、当寺開山通幻和尚の道徳、後円融院帝の叡聞に達す。之れに依り、丹波・摂津・讃岐・伊予・土佐の五州の大守細川右京大夫源頼之公に仰付けられ、公は七堂伽藍を創建あそばされ勅願所となさしめたまう。則ち、天下曹洞一宗の大僧録を賜う。これより日本国曹洞一宗の規矩、諸法度は当寺に於て相定むる事、延宝伝灯録、また、総持寺旧記に詳かなり。後円融院帝御崩御の後、御遺勅に依り、当寺に於て一千七百僧を聚会し、百日の間、御追福の御法事仰せ付けられる。これ、扶桑国曹洞宗の江湖会(ごうこえ)法式の始めなり。
  と記されています。(『続・曹洞宗全書「寺誌」115頁所収』)。
     

 
   今、便利な場所といえば、交通機関が発達し、車の乗り入れも容易な都市近郊の地域をさすのが普通ですから、現代の眼で摂丹境の永澤寺をみると、なんと不便な奥地の山の上に建てたものかといぶかる人も少なくありません。しかし、当時は徒歩の時代です。永澤寺から宿泊なしの一日行程で、京へも大阪へも、また、山陰街道の宿場町・綾部や福知山へも、山陽街道の明石や姫路にも通ずる極めて便利な地点であります。
 そのころ盛んであった山岳修験道場を眺望しますと、あたかも永澤寺を取り囲むかのように、法道仙人の開かれたと伝える三国山や千丈山の霊場があり、そして日羅上人の開創と伝える羽束山や太舟山の道場がそびえ、これら山々の北方に続く篠山盆地にそびえる三嶽の修験道場は、大和の大峯山と競うほどの繁栄であったと伝わっています。
 三国山の南麓には天王寺という修験の古刹があり、南北朝のころ火災で焼失しますが、その後間もなく同じ場所に建てられたのが、この永澤寺であるとの伝承が今に伝わっているほどです。
     
 
     

 
   通幻禅師は元亨2年(1322)に生まれます。この世とは別な世界・・・墓中・・・からの誕生です。臨月をひかえて亡くなった母親を埋葬した翌日、子どもの産声がするので墓を掘り起こすと、そこに男の子が生まれていました。父の名も定かではなく、出生地も誕生の日も伝わっていません。誕生そのものが怪異であったので、墓中からの出生が強調されすぎて、他のことが忘れられて伝わったのでしょう。ご自身が70年を生き抜いたと遺偈(ゆいげ)に書き残されているので、逆算すると元亨2年にあたります。
  生まれた時から神童にしたてられるでもなく、生きる力を存分に秘めて裸のままで生まれ出て、人の運と仏の縁にめぐまれて、力強く当時の時代を生き抜かれた禅僧の生涯に、篤い敬慕の念をいだきます。
 出生地は京都丹波とも、北九州(大分県国東郡武蔵郷)とも、因州(鳥取県岩見町)とも、越前国府(武生市の竜泉寺では、出生されて墓中に埋葬したと伝えている)ともいわれ、三田の民話にも通幻禅師の出生の話があるほどです。様々な考証があり定説はありませんが、武蔵郷を誕生の地とする説が自然のようです。
 壮年期を迎えた通幻和尚は、その師・峨山禅師の總持寺経営の意志を継ぎ、摂丹境に永澤寺を開創してここを活動の本拠にしつつ、曹洞宗が室町・戦国の世を通じて飛躍的に発展する素地をつちかい、宗門史上特筆すべき偉才ぶりを発揮されます。“通幻寂霊”のその名は、末代にまで輝いています。
     

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