◇住職の部屋
   
 
   
    
  2016年6月28日更新

永澤寺と永澤さん

通幻寂霊禅師がこの地に寺を開き寺号を「永澤寺」とされましたが、どのような理由があって名付けられたのか記録も伝承も残されておりません。 たとえ禅師が書き残されたとしても、当寺は二度も災禍にあい七堂伽藍は全焼したので記録は消失したと考えられます。
禅僧は臨終に際して、その心境や弟子への誡めなど辞世の言葉を漢詩で残します。これを 遺偈ゆいげといいますが、通幻禅師は「 甲子とし 算計かぞえれば七十に満つ云々」と遺して、明徳2年(1391)5月5日に遷化されたので逆算すると元享2年(1322)の誕生ということになりますが月日までは知ることができません。
生誕地についても、「洛陽(京都)の勇士某氏の子」「洛陽において細川氏の子として出生」「因州磯崎の人、永沢家光の子。寺号はこれによる」「丹波の商人の子」等々諸説ありますが、先人の調査研究から豊後国武蔵郷(大分県国東市)と云うのが定説になっており、近年この地には顕彰碑が建てられています。
亡母の墓から生まれ、父の名も母の名も確かでなく、出生地も定かでないと伝わる通幻禅師はご自分の生まれた年月、素性や土地について周囲の者にも示しておられず記録も残されなかった方ですから、おそらく寺号命名の理由も残されなかったと考えられます。
永澤寺由緒に「応安年中、当寺開山通幻和尚の道徳、後円融院帝の叡聞に達す。之れに依り、丹波・摂津・讃岐・伊予・土佐の五州の大守細川右京大夫源頼之公に仰付せられ、公は、七堂伽藍を創建あそばされ、勅願所となさしめたまう。」とあります。
細川公は現在でいえば五つの国を治める知事職のような方であり、大伽藍を建立するにはそれ相当の財力を持った支援者が必要だったはずだと思われます。
このことを知った丹波国大山の長澤義遠という豪族がいち早く協力を申し出て寺は立派に竣工したのです。
通幻禅師は長澤氏の助力を大なる徳として、寺号を命名するにあたり長澤氏の名が残るように、また、本師の峨山禅師や法の祖父に当たる大本山總持寺を開かれた瑩山禅師のお陰と感謝の念を抱き、両禅師が住職をされた石川県羽咋の「 永光寺ようこうじ」に因み[長]を「永」に変え「 永澤寺ようたくじ」とされたのではないかと考えられます。
なお、通幻禅師十哲の一人で当山八世の天鷹祖祐禅師は加賀、富樫監物秀家の次男で、富樫左衛門尉の孫に当たります。この富樫氏は安宅の関守であって、歌舞伎の勧進帳で知られるように義経、弁慶を無事通関させた人物です。一方、長澤義遠は義経の孫に当たると云われ、これらの因縁により長澤氏が当寺の建立に助力を申し出たともいわれています。
ここに、寺号命名について記すのは、「寺の名前と家の姓が同じだから」という理由で有難いご縁を結ばせて頂いている方があるからです。
平成7年、網走郡で水産加工業を営まれる永澤さんは、仕事で大阪へ出張される度に来山下さり交流が深まり、北海道へ旅した時にはご自宅へお邪魔させていただき、今も変わらずお付き合いが続いております。
平成15年に来山された青森市の永澤さんは、因縁を喜び永代供養の位牌を奉祀され春秋彼岸やお盆には欠かさず先祖供養を続けておられます。
平成28年5月に札幌から電話を頂いた永澤さんは、遠方で行けないから永澤寺のオリジナル朱印帳が欲しいと申し込まれお送りしました。
その翌日、弘前市の永澤さんは、小樽市に住む父親と千葉市に居られる叔母を誘い、伊丹空港で合流して来山下さりゆっくりお話しさせていただき、三人はそれぞれ観音様に幟を奉納してお帰りになりました。
不思議にも、青森や北海道の方々とのご縁ばかりですが、これからも、こんな不思議で有難いご縁が生まれますようにと願って「永澤寺」の名の由来を調べてみました。

参考文献 奥田楽々斉著 「多紀郷土史考」 多紀郷土史考刊行会
  中嶋仁道著 「通幻和尚の研究」 山喜房仏書林
  山端昭道著 「通幻禅師物語」 摂丹境永澤寺
         
   
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